先日テレビで放送されていて知ったのですが!!
博多名物「明太子」誕生から名物と呼ばれるまでになることが出来たのは一人の男性による影響が大きく関係しているらしいのです。
その名は、川原 俊夫さん
この方は、とてもお人よしで 消防団でもないのに近所で火事が起こればすぐに助けにかけつけ 火事で焼き出された人には食事を提供したり
俊雄さんは困った人を放ってはおけない性格だったのでしょう!
他にPTA役員、川の清掃、ボランティアなどを自分から進んでやっていたと言われています。
また、生活に余裕があるわけではなかったが
伝統の祭りの存続が危機に陥ると、自分で資金を出して危機を救ったりした事もあったそうです。
そして、肝心の「明太子」作るきっかけになったのは 妻に美味しいメンタイを食べさせてあげたいと思ったことがきっかけになったそうです。
この「メンタイ」とは日韓併合時代の韓国で暮らしていた俊雄さん夫婦が食べていたものでタラコをニンニクや唐辛子で味付けした、『ミョンランジョッ』と呼ばれるキムチのような総菜だった。 当時日本人の間では「メンタイ」と呼ばれていたそうです。
話を少しとばしますが
日本人の味覚に合う「明太子」を作るのに10年もかけて出来上がった商品が『味の明太子』です。
最初はあまり売れなかったのですが、俊雄さんの人柄もあり口コミで次第に売れるようになって行列もできるほど繁盛したそうです。
それから
明太子を求めて遠くからお客さんが訪れるようになると、彼らがふくやと間違って他の店に入ってしまうことが多発した。 そこで、間違えられた店の店主は、『味の明太子』を店頭に置かせてほしいと、頼み込んだのだが…俊夫さんは卸売販売をしたくなかった。 商品の管理が行き届かなくなり、一番美味しい時に明太子を食べてもらえなくなる…さらに中間マージンが発生し、明太子が高額になってしまうからであった。 そこで俊夫さんは…なんと、10年もかけて完成させた製法を惜しげもなく公開したのである!
しかし、俊夫さんは最後の味付けだけは、あえて伝授しなかった。 そこには、彼なりの考えがあった。 各店がそれぞれ、一番美味しいと思う味付けをすることで、店ごとに味の特徴が出る。 その結果、お客さんが様々な味の明太子を楽しめるようになると考えたのだ。
こうして、明太子を製造販売する数多くの会社が現れた。 彼らは店ごとに独特の味付けを施し、ふくやとはまた別の明太子の味を作り出した。 さらに、1975年に福岡に新幹線が開通すると、博多の明太子は爆発的に売れることとなり…その名を知らない人はいない国民的なご飯の友となった。
※文章の一部をこちらのページから引用しております
https://www.fujitv.co.jp/unb/contents/180531_1.html
もっと詳しく知りたい方は↑↑のURLに書いておりますのでチェックしてください。
い~や~ こんな素晴らしい人が明太子の産みの親だったんですね~(^^)
これは、ふくやさんの明太子が食べたくなりますなぁ~
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